m-log
パズルゲーム感想アーカイブ

再帰酩酊 “Patrick's Parabox”

帰路は覚えていないが今は間違いなく家にいるのだからめでたしめでたし……本当に?

再帰をモチーフとした倉庫番ライクなパズル。
操作方法もクリア条件も王道のシンプルなルールだが、最大の特徴は動かせるハコに盤面そのものが設定されていることである。フリーな状態ではただのハコとして働き、デッドエンドに追い込んだ状態で押そうとするとそのハコの中の盤面への進入処理が入る。盤面から脱出するとその盤面をハコとして抱えていた上層の盤面へと移動し、元いた盤面がハコへと戻る。
ハコには自分が今まさに動き回っている盤面が指定されることもあり、そういった問題はいわゆるドロステ効果のように中と外とで動きが連動し、操作キャラクターの盤面間の移動は再帰的に処理される。
マヌケはトレーラーなどでどういうパズルかは大まかに理解していたつもりだったのだが、実際に動かしてみると直感から遠く離れたその挙動に予想以上に仰天してしまった。箱の外に出たはずが箱の中にいたという光景は、理屈の上ではわかっていても摩訶不思議なことこの上ない。
盤面Aの中に盤面Bを収めたハコがあり、盤面Bの中に盤面Cを収めたハコがあり、盤面Cの中に盤面Aを収めたハコがあり……と再帰までに二重三重にハコを重ねられるとより奇妙になる。ハコを動かし包含関係を変えるとさらにわけがわからなくなっていく。

ともすれば奇抜な見た目に着目してしまうが、このパズルは幅の広さが魅力的だった。
盤面の入ったハコとはいうなればポータルゲートやワープポイントといった非連続な対応関係だが、それらが動かせることでより選択肢が広がっているのだ。
そして、この魅力を支えるのが壁のレベルデザイン上の意味付けである。
倉庫番ライクなパズルにおける壁はデッドエンドとして設定されるのが一般的だが、このパズルではハコの中の盤面に進入するのに壁に追い込む必要があるため、ただのデッドエンドではなく、ストッパーや境目など積極的に利用すべき存在へと役割が繰り上がっている。
倉庫番ライクなパズルの再構築まで含めたモチーフの組み込み方に一切の抜かりはなく、全てがクレバーであるように感じた。

しかしながら、マヌケはこのクレバーなパズルを前に中々やる気を持つことができなかった。プレイ中は常に早く終わってほしい気持ちと隣り合わせで、ようやくやる気が持続するようになり出したのは最終盤だった。
なぜそうなってしまったのか、それはおそらく、解けないもどかしさを抱えつつも理解より先に解けてしまって、その薄気味悪さが達成感を大きく上回ってしまったからだろう。誤解を恐れずたとえるなら、泥酔状態で帰宅した翌朝、家路の記憶がない時に抱く不気味さに近い。
レベルデザインは確かに洗練されていて、解けないもどかしさを覚えずにはいられない。そしてそれらを解決するのは総当たりがもたらす偶然ではなく、こうすれば解けるはずだという思考の結果の確信に近い自信である。だがひとたびその自信の根拠を厳密に問われると、途端に足元が覚束なく感じてしまい、堂々たるはずの達成感がぐらつくのだ。
この気味の悪さの出所を掘り下げると、「難易度調整やレベルデザインの傾向を含めたルールの提示方法」と「再帰の挙動と倉庫番ライクの相性」の二つにまとめられる。

まずルールの提示方法についてだが、このパズルでは理解すべきルールが細かく存在しているが、その一つ一つについて問題集を分け各々理解できるように組まれている。そしてこのパズルにおけるレベルデザインの傾向として、解決すべき事柄の層を薄くする代わりに、ルールの理解として解決すべき事柄そのものをややこしくすることで難しくなりすぎないようにバランスを取っている。
結果として、このパズルは実質的にはおつまみパズルと呼べるような、奇妙な見てくれと不可解な挙動に反して手軽に解けるパズルとなっているのだが、マヌケにはこれが逆に作用した。時間の上ではサクサク解けたところで、心理的にもサクサク解けたと感じられるわけではない。
解決すべき事柄にルールの理解があてがわれているということは、解けた実感を得られるのはそれを理解してようやくということになるが、おつまみパズルとしてバラバラに分けられているがゆえに、真に理解できるまでが無駄に長い。細切れにされたそれらを前にして、とりあえず問題に必要な分だけ理解して解いたとうやむやながらも納得するしかない。
さらに、後半で説明されるルールに関する挙動も好奇心によって簡単に引き起こせてしまうが、それに関する理解は時が来るまで全く不明なまま待たされてしまう。知る必要がなくともできてしまうと今のうちにと知りたくなるのがパズルの奴隷の性というもので、かといって説明のないまま自力で理解できるほどマヌケは賢くもない。ルール同士の干渉や優先順位なども絡むと余計に意味がわからなくなって、考える気力は奪われる一方と、わだかまりを抱えたまま意気揚々と解き進められるわけがなかった。

そして再帰の挙動と倉庫番ライクの相性についてだが、このパズルにおいてやることは結局接続の操作に着地する。そして、接続されたハコの移動はパネルが連動するスライドパズルと特徴を共通している節があり、実際そのものと見まごうような問題すらも存在している。スライドパズルで操作するのはパネルだが、このパズルでは端点を操作するような感覚だ。
だが、それはあくまで趣向として特徴を共通しているだけにすぎない。盤面の中に入れるのと出すのとでは全く手間が違う通り、このパズルはの大枠は倉庫番ライクである。つまり非対称なパズルなのだ。
これがマヌケにどう作用したかというと、非可換なはずのものが可換であると錯覚させるように機能してしまったのだ。存在しないはずの対称性を無意識のうちに思考の中心に置こうとしてしまいそうになる、そんな暴力的で気分の悪くなる絵面として映り、問題全体を一度に俯瞰することのできない仕様も相まって、長く眺めていられずやる気を失ってしまった。

とはいえ、これらはどちらもそうせざるを得ない事情、デメリットを上回るメリットが理解できるものであり、早い話が個人的な嗜好が大きい。
前者でいうと、終盤で明かされる無限の盤面に関するルールの説明がもっと早ければ、この不満は多少は緩和されただろう。だがもし再帰性の理解を早めてしまえば、問題集ごとに点在した一発芸のような問題のインパクトなども薄れてしまっていただろうし、理解を前提としていたずらに難しくしたところで、再帰で着飾ったただの手順の多い倉庫番になるだけだったかもしれない。
そもそも、あれは提示の順番からして再帰のからくりが暴かれるのを阻止するべく意図的に最後に回したようにも思える。事実、その後レベルデザインにおいて解決すべき事柄としてルールの理解に悩むことはなくなりやる気にもなれたが、それはつまりマヌケからやる気を奪い続けた再帰の錯覚の魔法が解けたということでもある。
後者でいうと、これを否定することはともすれば壁の存在意義を問い直した倉庫番という素晴らしいアイデアをも否定することにもなる。マヌケの中では、スライドパズルは互換のパズルであるがゆえに美しいという持論が凝り固まっているので、趣向として表れた段階でそれに支配されるため、いくら枠組といえど器用に切り分けたり融合させたりといった柔軟な発想を持たない。

第一印象で抱いた高揚感と初めて再帰でハコの中に連れ戻された瞬間の当惑とで期待感の高まりは凄かったものの、醒めない酔いのまま気持ち悪さが勝ってしまった結果、パズルの出来を素直に受け入れられないという、パズルの奴隷として大変情けない結論になってしまった。
元を辿ればpuzzleという言葉は混乱や困惑といった意味を持ち、このパズルは語源の通り正しく迷わせてくれる存在だった。ただ、マヌケは酔うよりも悩む形で頭を痛くしたかった。私は結局そういう人間なのだ。