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パズルゲーム感想アーカイブ

描かれた回顧録 “Behind the Frame”

『私が知り得るのは切り取られた空間だけ。枠外のことなど知る由もない』
『にもかかわらず、私には確信めいた予感があった』

画家を夢見るとある女性を描いたポイント&クリック。
彼女は公募展への応募作品を仕上げるべく部屋に篭りきりの日々を過ごしているが、日に日に身の回りで奇妙な違和感を覚えるようになる。そこにしまった記憶のない絵の具、身に覚えのない絵……一体何が起こっているのだろうか?
キャンバスに向かい絵を仕上げていく傍らで、彼女はこれらの謎にも向き合わなければならなくなっていく。

ある程度予想はしていたものの、しかしながら予想以上にこのゲームはパズルではなかった。ポイント&クリックではあるが、謎解きアドベンチャーと呼べるかどうかすらも怪しく思えるほどだ。
やることは見たものを見たままに再現することばかりであり、例外として情報と情報の点つなぎが出てくるという始末である。
彼女に起こる奇妙な現象の謎の解明すらも、種明かしを待たずして予想ができるほどでどんでん返しの驚きを期待できるわけでもない。

とはいえ、このゲームはそもそも謎解きの質で勝負していないのは明確なので、それについてのつまらなさを嘆いても意味はないだろう。
このゲームの主題は物語の追体験であり、世界に没入できるか否かが最も大事なポイントとして設定されているように見えた。
謎解きアドベンチャーとしてのポイント&クリックであるならば、主人公の朝の日課を一つ一つ操作させる必要もなければ、わざわざフリーハンドで絵筆を動かさせる必要もなかった。だが主人公の動きを一つ一つ丁寧に操作させることによって、あたかも彼女になりきったかのような気分になれる。
プレイヤーにとっては赤の他人である彼女を理解するために、物語の追体験のために、プレイヤーに任せた一つ一つの動作は画家としての主人公を語るにあたって全てが外せない事柄だった。

追体験に没入できるか否かの一点だけで攻めたゲームであり、確かにそのための仕掛けは正しく機能していて、一定の感慨を生みはしたものの、しかしながらパズルの奴隷としてはやはりゲームとしての静的かつ消極的な退屈さのほうが強く残ってしまった。
1時間で終わるほどには短いゲームだが、あっという間の出来事というよりはようやく終わったかという気持ちのほうが大きかった。

とはいえ、ゲームとして退屈だっただけで、語られる中身がつまらなかったというわけではない。物語は確かにマヌケの心を強く揺さぶった。以下に物語の内容に絞った感想を残す。
ただし、全面的によかったというわけではないことはあらかじめ断っておく。

ネタバレ項目: 枠外によせて

主人公の隣人である気難しげな老画家・Jackがかつて志を共に切磋琢磨を重ねた画家の女性・Amber。彼にとってのとっておきの景色、つまり思い出の中で一際輝く彼女を描いた絵が世界として具現化したというのがこのゲームであり、語られた物語はすなわち絵に魂が吹き込まれていく過程だった。
ゲームのタイトル “Behind the Frame” は文字通りにこのゲームを表していたわけだ。
主人公がニューヨーク公募展向けの絵を描き続けるAmberとして実体化したのは、彼が最後に見た彼女の姿が反映されてのことだろうか。

とっておきの景色と呼ぶにふさわしい思い出の光景の数々は全てが溜息が出るほど美しく、クリア後は深い余韻を残したが、冷静になった後で振り返ってみると一つの疑問が浮かぶ。それは絵が完成するまでの過程である。
彼はとっておきの景色の構想を若い頃から持っていて、あの絵に心血を注ぐことが半ばライフワークと化していたようだが、魂が宿ったのは老いてようやくである。それも幾星霜の塗り重ねの果てではなく、しばらく筆が止まっていたのが急に動き出してのことらしい。

午後の日差しの眩しさに目を細めた時、彼は不意に、向かいに住む彼女に気がついた

刹那、インスピレーションが脳裏に怒涛の如く流れ込み、もうとうに止まって久しかった筆が、再び動き出す

上記は1章の最後にJackの部屋で語られる文章だが、この向かいに住む彼女の正体は誰なのだろうか?
彼が見たひまわりの絵はかつてAmberが描いた絵と同一のものだが、この時部屋には布が掛けられた絵、つまりとっておきの景色を描いた絵が既に存在している。
Jackは若い頃からAmberの幻を見る傾向があったようなので、素直に読み取るならば彼は隣家に彼女の幻を見て描き留めたということになるだろう。
だが、作中における窓枠が果たした役割を考えると、世界の歴史が奇妙なものに見えてくる。主人公がいたあの世界は最初から絵として存在したわけではなく、幻が絵として描き留められたとする説である。
そしてその場合、主人公の正体はより奇妙なものになる。描かれて魂を得たのではなく、Jackを煽り立てる絵描きの魂が既に存在していて、その人物がAmberとしての自覚を持ったことになる。

せっかくの回顧録も、主人公が描かれたAmberとしての自覚を持つまでの物語として眺めると急に恐ろしいものに見えてくる。
当時の彼がそうであったように、万事がうまくいくはずもなく、Amberには彼の知らない彼女なりの苦悩や挫折があったはずだ。だが主人公にそういった陰が感じられることは一切ない。
Jackは後に巨匠として大成したようだが、当時の彼は芽の出ない日陰者で、なおのことAmberが輝いて見えていたのだろう。描かれたAmberこと主人公の部屋には新進気鋭の画家であったことを示す輝かしい実績の数々が掲げられている。
そして、主人公は世界と自身の正体を知ってもなお、一切の迷いを見せることなくその役割に準じようとする。
彼女はJackが描いた思い出の中のAmberであり、実在のAmberとイコールではない。美化された虚像が美化された世界で、主人公がJackの理想にその身を捧げ自覚を持って自己を美化し続けながら生き続けるという事実は、私には非常に恐ろしく感じられてやまない。あまりにも都合がよすぎる。
彼はありのままのAmberに本当に向き合えていたのだろうか?

AmberにとってもJackがかけがえのない大切な存在であったことは間違いないだろうが、Jackの個展を見に来たAmberには家族がいたので、彼女はおそらくニューヨークで別の男性と結婚したのだろう。
二人の直接的な交流はニューヨークで開かれたAmberの個展への誘いが最後だろうか。互いの最大の理解者でも物理的に離れてしまうと手紙の頻度も落ちるというのがなんとも生々しい。
Amberが現実的に思い出を飲み込んでいるだけに、なおのこと理想に走ったJackが狂気的に感じてしまう。

失われた思い出と気高さを遠く思う気持ちは郷愁を誘ったが、読み込むと名状しがたい薄ら寒さが浮かび上がってくるという不気味な物語だった。
深く考えないほうがいいのだろう。そこまで想定していないのだろう。そうであってほしい。

余談だが、公募展用のあの絵は結局未完成のままじゃないか?
応募先が存在しないとしても、私はあの絵を完成させたかった。マヌケの魂はそれを求めていた。