境界のない地図 “Carto”
タイトルは主人公の名前であると同時に、英単語 “cartograph” に由来している。
“map” と比較すると地図作成のプロセスに重点が置かれた単語だが、その曖昧さはこのゲームの長所であり、同時に短所でもあった。
地図の欠片を切り貼りしながら探索範囲を広げていく見下ろし型の2Dアドベンチャー。
好奇心から引き起こってしまった嵐で飛行船から落ちおばあちゃんと離れ離れになってしまった主人公・カートは、その血に流れる地図制作者の力を使って道を切り拓き、おばあちゃんとの再会を目指す。
最初は欠片数枚分のわずかな土地から始まるが、地図の欠片を拾い集めていくことで世界が広がっていく。
地図の欠片はそれぞれ移動と回転を自由に行うことができ、地形が揃えば自由に貼り合わせることができる。遠く離れた2軒の家も、操作一つで簡単にお隣さんになるのである。
地図の欠片は落ちているものを拾い集めるだけでなく、あれはどこぞの方角にあるとか、何々の近くに誰々がいるなどといった、住民からの聞き込みに従った地形を作ることでも入手することができる。
つまり、このゲームはれっきとした謎解きゲームなのである。
謎解きゲームを苦手としているマヌケ、その事実を理解した時は思わず苦い顔になってしまったが、答えは探索とトライアンドエラーの観察によって直感的に辿り着くことができ、それでいて地図の作成というプロセスによって点つなぎほどの直接的な繋がりがないため、単調さを感じることなく解くことができた。
氷山のレベルデザインなど、プロセスをパズルに寄せれば寄せるほど地図操作の不便さに伴ってか単調さが出てくるように感じたので、パズルではなく謎解きゲームに着地させたのは正解だったように思う。
何度か納得より先に勝手に解けてしまう事故が起こりはしたものの、集めた情報に従い好奇心の赴くままに動かせば、概ね期待通りに、時には期待以上に驚くべき何かが起こった。近すぎず遠すぎない情報と答えの距離感は絶妙で、次から次へと進む物語と併せてサクサクとした気持ちよさがあった。
しかしながら、全ての好奇心が答えをもって綺麗に回収されるわけではなかったことがわだかまりを残していった。
謎解きプレイヤーとして、エサを忘れた漁師がいれば何としてでもエサを用意したくなるし、渦に注意!と看板を立てられればそこに何かしらの秘匿を疑いたくなる。他にも、シーアナンが見たという水中都市、草原に咲くと言われるユニークな草の数々、メッセンジャー達の故郷など、制作者からすればただのフレーバーテキストでも、プレイヤーからすれば謎解きのピースの一つなのではないかと全てが疑わしい。
なまじ道中で秘密の欠片なるものを拾ってしまったこと、そして過去のエリアへの自由な再訪ができないという制約によって、そこにはストーリーを進める以外にも解くべき別の謎があるのではないかという余分な疑念を抱くこととなってしまった。
全ての秘密の欠片を集めることによって、解ける謎の範囲、つまり何がヒントで何がそうではないのかがようやく確定したものの、それはつまり最後の最後までフレーバーテキストや飾りに気を取られていたということでもあり、同時に解けると信じていた魅力的な謎の夢が覚めた瞬間でもある。
好奇心は先へと進ませてくれるが、全ての好奇心が答えに恵まれるわけではなく、残された好奇心はその後ずっと後ろ髪を引き続けることとなる。
それはまるで作中のカートのようでもある。好奇心から冒険が始まり、好奇心のうちになぜか他者の大事な目的に絡んでしまっていて、何が何だかよくわからないが好奇心に従ううちに事が進み、現地の民は喜怒哀楽に湧くが、結局カート本人の目的は達成されない。
また奇妙なことに、このゲームは幾度となく好奇心が先行したが、やる気が追いつくことは終ぞなかった。
これは前述の未解決の謎が積み上がってしまうことに加えて、広がり続ける地図が開いたまま閉じることがなかったことが影響しているように思う。
一度完成させたと思った地形も、別の情報で簡単に崩れてしまう。隣接関係は一時的なものであり、永続的な正解の地形が存在するわけではないという不確かさには何の感慨もありはしなかった。さながら入れ替わりの激しいテナントを眺めているかのような気分である。
謎解きが好奇心と並走するテンポのよさは心地よかったものの、パズルとしての面白みの薄さと残された謎の数々、正解の不確かさによって、プレイ中に楽しんでいるほど気が乗らないという奇妙な感覚に陥るゲームだった。
楽しんだ気持ちも驚いた気持ちも、釈然としない気持ちも憂鬱な気持ちも、どれもが確かに感じたものだが、総括するならば最後に見つけた秘密の欠片Ⅰを拾った瞬間の乾いた笑い、あれが全てだったのかもしれない。