たおやかなる見守りの剪定 “Prune”
誰が為に木を育て、誰が為に花咲かす。
木を日の当たる場所へと伸ばし、既定の数以上の花を咲かせられればクリアとなるゲーム。育てるのはスタート地点と発芽の方向を決めると勝手に幹が伸び枝が生えてくる謎の雅な木である。
木が成長に使えるリソースは一定量で限られていて、そのリソースの分配を枝の剪定によって行う。二股に分かれた枝の一方を切り落とすことでそこから先が育たなくなり、残りの枝の先が伸びていく。伸びた先でまた二股に分かれていくので一方を選んで切り落とす……このゲームはその繰り返しである。
基本的に日当たりのいい場所までの道のりは遠く曲がりくねっているので、ささやかな日の光を目指すとなると細い枝を懸命に伸ばしたような木に育つ。盆栽のような美しい樹形は望めない。
枝の伸びる方向や枝分かれのタイミングなどに統一された明確なルールがあるわけではない以上、このゲームはパズルではない。問題ごとにパラメータが異なる物理演算パズルとみなすこともできなくはないが、解答のアプローチが成長後を読みながら障害物を避けて枝を切っていくだけと、解答に対して発想そのものに異を唱える落とし穴があるわけでもないので、その点でもやはりパズルではない。
パズルではないことを抜きにしても、クリア条件達成を目指すゲームとしてプレイする分にはあまり楽しむことはできなかった。木を揺らし枝を叩きつける風や木を枯らせる毒などといったイレギュラーへの対処が必要だったり、通すべき通路が狭めに設定されていたりと、思い通りに制御できないことへの苛立ちを感じることがしばしばあったからだ。
ゲームとして楽しめなかった原因には操作面の欠点もある。木は黒色一色でしか表現されないため枝の重なりや伸び方が確認しにくいし、剪定は確認やガイドなどなく即時に行われるため、意図した枝とは違う枝を切ってしまったことは少なくなかった。日向まであと少しというギリギリのところで剪定を誤った時の嘆息はいつだって大きい。
だが、それはゲームとして神経質にプレイした時の話である。全くもってパズルではないしゲームとしても苛立つポイントが少なくないこの作品だが、木が伸びるのを眺めるだけのシミュレーションとして遊ぶ分には悪くない。この視点で振り返ってみれば、操作面での不親切さも自らの不注意が破滅を招く脆さを味わえるという点で雰囲気を醸し出すのに一役買っていると言える。
そこが荒地や汚染された大気に満ちた大地であったとしても、一度芽を出せば木々は勝手に逞しく育つ。育ち切った木が咲かせた満開の花がステージの終わりとともに一斉に散っていく姿は美しくも儚い。木の一生には何も考えていなくとも何か心に沁みるものがある。
外面の演出だけで、プレイする面白さのないゲームのことを私は雰囲気ゲーと称するが、ゲームとしての面白さを損なうことも含めての演出ということも踏まえると、この作品を雰囲気ゲーと呼びたくない気持ちがある。ゲームとしての芸術作品というのがしっくりくるだろうか。
花より団子だとしても、花は花である。
追記
全12問の新しい問題集が追加されたので、それに関する追記。
“complete” の定義が青い花の満開を含むのかは不明だが、ゲームクリア後に解放される “challenging levels” なだけあって、どれも歯応えのある難易度となっている。
全問で青い花の開花と通常開花の両方を達成しているが、本来難しいはずの青い花の開花のほうが概ね簡単である。これは意図的にそうしているように感じられた。
ただ、ゲームとしての手応えが出たことで、剪定の不便さが前面に出てくるようになり、本来のシミュレーションを楽しむ余裕が消えて思い通りに木が育たない苛立ちのほうが大きく表れるようになっていた。
同じ枝でも剪定のタイミングでその後の成長の仕方が変わってくるというのは今回初めて気づいたが、そういった細かな仕様への気づきを求めるゲームであってほしくはなかった。
過去から述べている通り、この作品はゲームに寄せるとそれだけ不便さによるストレスが際立ってくるようになるのだが、なぜこのようなシミュレーションの薄い、戦略的でゲームらしい問題を出したのだろうか。
邪推だが、本来は成長の仕様を紐解く必要のある凶悪なゲームになるはずだったということなのだろうか……。