m-log
パズルゲーム感想アーカイブ

暗翳の白昼夢 “The Almost Gone”

パズルとは、問題と解答の答え合わせで遊ぶことである。運命を選択したり、誰かを救ったりすることではない。
暴いた真実が目的であり、全てである。

Come to the treehouse, you'll be safe there.

「私」は気がつくと自室のベッドにいた……いや、自室にしては明らかにおかしい。慣れ親しんだ私物はなく、あるのはそれとよく似た中身のない小道具ばかり。まるで自分を騙しているかのような空間だ。
傍らには父親が残したと思われる「ツリーハウスにおいで」と書かれたメモが残されていた。父親がツリーハウスの構想を練っていたことを「私」は知ってはいたけど、完成したなんて話は聞いた覚えがない。
ここは一体何なのか?「私」はなぜここにいるのか?この空間の目的も、「私」の記憶も、何もかもが酷く曖昧だが、なんとなく、「私」はツリーハウスに行かねばならないような気がする。そのためにも、まずはこの部屋から出なければ。

このゲームはツリーハウスを目指して不思議な空間を彷徨い歩く謎解きアドベンチャーである。
いわゆるポイント&クリックで、探索箇所は区画ごとに区切られていて、それぞれの区画は等角投影で眺める方向を四方に変えることができる。家に見えるものでも裏から見ればハリボテであったりなど、演出のために用いられるばかりでなく、ある方向から眺めることで浮かび上がる絵があったりなど、謎解きのトリックにも用いられる。

謎解きの内容は非常に素直なもので、見つけてきた情報を使えそうな場所でそのまま使うというその内容は半ば点つなぎである。解決すべき事柄が入り組んでいたり、対応関係の応用があったりなどといったことはない。
簡単ではあるが安直というほどでもないのでかろうじてパズルとは呼べるだろうか。個人的にはパズルと自称パズルの境界上にいるように見える。

単にクリアする行為だけを指して謎解きゲームとするならば、この作品は無駄の多いつまらないものとして映る。謎解きの内容が集めた情報の整理だけで済むという凡庸な内容のくせ、物語の進行に関わらない余計なものが多いからだ。謎解きに関わりそうなものでも実際はフレーバーテキストで拾えも使えもしないということは少なくない。
さらに、物語の結末は「私」が一人勝手に納得して終わるだけとプレイヤーを置いてけぼりにするような内容なので、そこにゲームクリアの達成感もない。

しかしながら、物語の真相がこの作品における解かれるべき謎だとすれば、ゲームのほうがおまけとなる。
「私」は自室を出た先で、この世界は「私」に見られてはならないものであること、そして「私」が見てはいけないものであることを早々に理解する。それでも「私」は隠されたものを見ようとし、暴こうとし、外へ出て真実を知ろうとする。そして「私」は、目を背けたくなるような真実の数々を理解した上で、物語の最後を迎える。
結末は変えようがなく、解いたところでどうにかなるわけでもないのだが、それでも「私」と同じ目線に立つ行為は、「私」から遠ざけようとした事実の数々をピースとしたパズルとなる。

物語は一つの家族が暗い影に呑み込まれていく様をただ黙って眺めるだけ、しかも謎解きはそのおまけと、積極性をもって挑むには拍子抜けなゲームだが、真相の究明をパズルとすればまた別の側面が浮かび上がってくるという点で面白い作品だった。
真相の究明でも完全な正解を得られるパズルというわけでもないのである程度自分の解釈で割り切る必要があり、理解してもなお消化不良というのは否めないが、暗い話ゆえに希望を残すためにも正解を「私」だけのものにしてプレイヤーに与えなかったのは正しかったように思う。

ネタバレ項目: マヌケの真相考察

Please let this be a dream.

主な登場人物は「私」とその両親、そして父方の祖父である。それぞれのActから窺い知れる事実は以下の通りだろう。

  • Act 1: 両親は「私」にもわかるほどの家庭内別居状態だった。母親は精神病を患っていること、そして親権の主張を含めた離婚調停を進めていたことの2点を「私」に隠していた。父親は建築士で、仕事の傍らツリーハウスの構想を練っていた。
  • Act 2: 自宅周辺に警察のものと思しき規制線のテープが貼られていた。今まで近所で大規模な警察沙汰が起こったことなど「私」の記憶にはなかった。
  • Act 3前編: 父親は子供の頃、動物虐待に走るほどの人格の歪みを抱えていた。祖父母は父親に対して虐待に等しい教育を施した。父親はツリーハウスの構想を子供の頃から持っていた。
  • Act 3後編: 祖父は高名な建築士だったが倒壊事故を起こし失踪、祖母の死後は特に惨めな晩年を送り、孤独な最期を迎えた。
  • Act 4: 母親は精神病院で「私」の私物に囲まれながら入院生活を送っていた。安置室が終着点だったことからおそらく死亡した。
  • Act 5: 完成していないはずのツリーハウスに辿り着く。中に父親の形跡は全くなく、「私」はベッドの中で目を閉じた。

5つのActのそれぞれには時系列と思われるメモが付属していて、それに従って並べ替えると、Act 3 (30 years before)→Act 5 (A few minutes before)→Act 1 (A moment after)→Act 2 (An hour after)→Act 4 (One year after)となる。
Act 5とAct 1の間に間違いなく何かが起こっている。そして、何かが起こった1時間後に自宅に警察が来ている。さらに、1年後に母親は守れなかった (I'm sorry, I was trying to protect…) と嘆いている。
Act 3で祖父の、Act 4で母親の最期が描かれているのに父親がどうなったかの記載は終ぞなく、代わりに彼にとっては子供の頃からの夢であるようなツリーハウスが突然現れている。

となれば、それを埋める答えは一つしかないだろう。自宅で父親と「私」の無理心中が起こったのだ。
Act 1の自宅出口が内側から塞がれていたのは外から邪魔者が侵入するのを阻止するためか。大量のウッドチップからして練炭自殺だろうか?全編にわたって「私」は閉じ込められることに極度の抵抗を示しているので、どこか狭い空間に閉じ込められていたのは間違いないだろう。おそらくは両親の寝室の隣の部屋の開かずのクローゼットか。
または、バスルームから黒い影が侵食してきたこと、Act 2冒頭のモノローグ、Act 4待合室のテレビの映像や、スプリンクラー発動のシーンで煙より水を恐れたことから、からくも逃げ出せたものの水を求めて溺死したとか、「私」はバスルームで浴槽に沈められ殺害されたのち、父親は別室で自殺という線もあるかもしれない。
あるいは、Act 2のパトカー数台が無惨な事故を起こしていることに注目するなら、父親は「私」を殺害した後、自宅に立て籠もり警察と捨て身の戦闘を行ったという可能性もある。
いずれにしろ、「私」と父親がほぼ同じタイミングで死んだのは確実だろう。

Act 2の犬小屋や巣箱を見るに父親の人格の歪みは治っていないままで、母親はこの異常性に気づいたものの、Act 1のウェディングケーキの表現しかり、「私」を身ごもってしまい逃げ道が塞がれてしまったというところだろうか。精神を病むのも納得である。
「私」は母親の制止も聞かずに父親とキャンプに行ったりなどだいぶ父親に懐いていたようなので、母親は親権を取り上げることで守ろうとしたのだろうが間に合わなかったようだ。父親と親子二人でキャンプに行くことに対してなぜ母親は強く反発するのかと疑問に思っていたようだが、父親の本性を知っていれば気が気でないのも当然だろう。

「私」が知らなかった真実を暴き立てるこの世界はまるで後悔を抱く者たちの告解を体現したもののようでもある。
だとすれば、それを阻止するのがこの世界における父親の立ち位置ということになるのだろう。「私」を欺く工作の数々を見て、「私」はそれを父親のアイデアだろうと評している。自宅を偽の私物で飾り立て、世界のあちこちに鍵をかけたのは父親の本性が暴かれないようにするためか。

しかしながら完全な真実の解明などは程遠く、不明な点は数多く残されている。
父親は「私」に十分なほど懐かれていて、祖父も死んで清々しただろうに、なぜ心中をする必要があったのか?
父親は歪みが先にあってその結果虐待されたのか、虐待の結果歪んだのか?
父親の意思は自室の偽装などの工作に表れているが、同時にツリーハウスなら安全である (つまりAct 1で目を覚ました場所は安全ではない) と自ら示唆したりなど、なぜ矛盾したことを行っているのか?
世界のあちこちに生える木に「私」は親近感と同時に敵意を抱いているが、はたして一体何を象徴しているのか?
「私」は全てを理解した上で、なぜツリーハウスに行かねばならないという結論に到達したのか?
それらは部分的な証拠しか残っていなかったので、一貫した説明が可能となるような繋がりを持たせることはできなかった。
マヌケにわかるのは、聡明で慧眼の持ち主でもあった「私」は明確な意志をもってあの結末を迎えたということだけだ。

All this time, I just wanted to disappear into this bed... Now I'm home and ready to close my eyes...

最後の「私」のモノローグをどう捉えるかによってこの物語の意味は変わるだろう。これから起こることへの覚悟と見るか、起こってしまったことへのけじめと見るか。
マヌケの意見としては、タイトルも “The Almost Gone” と完全なバッドエンドと決まっているわけではないのだから、まだ間に合う、まだやり直せるのだという希望を捨てずにいたい。